パロディズムというパラサイティズム
言葉が先行するアイデアというのがあって、歌詞にインスパイアされたり小説の映像化であったり、というのが該当するとします。そしてこの絵は、人名から「同音異義語」を見つけたことをきっかけに描いたものです。
ダジャレとも言いますね。
ではなぜわざわざ絵や映像を作るのか。自分が思うに、それは補完欲求みたいなものなのではないかと思うのです。
まんがのアニメ化、アニメの実写化。その他多くのマルチメディア展開。賛否否否両論となるのはだいたい目星がつくものですら作ってしまう理由です。
「これをもっと分かりやすく伝えたい」「ありとあらゆる方法で形にしたい」というような欲望は補完欲求・支配欲・把握欲・説明欲・広報欲といった、自身が他者へ働きかける高度な欲望だと思うのですが、単に「自己顕示欲」と言うのでしょう。
おもしろいことに、自己顕示とオリジナリティはそれほど関係のある要素ではありません。むしろできるだけ多くの共有・共感を自分主導で起こすには他人の知るものを多く引用するのが得策と、思ってしまうものなのです。
だから「同音異義語」を発端に、「分かりやすくするために」引用したり、「この言葉(人名)におかしみを感じてもらい」共感してもらうために正統派作品風なタッチ・レイアウトの絵を描きたい。「こんなことを考えたよ、何となく伝わるよね?」と。
そんなもやもやした欲求や意図がこういった落書きを自分にさせるのです。
そして、↓こんなあたりになってくると、ちょっと見てる方もよく分からなくなってくると思うんです。
きっと描き手の意図しない解釈も生まれて来て、それが不快感であったりコレジャナイ感であったりするのではないか。
だかられっきとした作品づくりには計画というものがあって、これら落書きにはそれがなく、かわりに大量に生産されるべきなのではないか。
と、寡作な落書き好きがよく分からないしめ方で自分の首をしめ始めましたよ。
タイトルが浮いている今回の記事でした。